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普通の市民を犯罪者に仕立て上げる新聞記事の罪深さ(中)

 前回、悪徳な愛好者が北限のギフチョウを高値で売りさばいているかのような新聞の記事が、いかに的外れで馬鹿げているかを指摘した。しかし、本当の問題は標本の売買というより、むしろ採集そのものだろう。 

 普通の市民を犯罪者に仕立て上げる新聞記事の罪深さ(上)(内部リンク)

■ 採ることがなぜいけないのか

 私たち愛好者は、「なぜ採るのか」「なぜ採る必要があるのか」という批判に対して、正直心の底から困惑する。私はかつてタイのチェンマイで新種の蝶を発見した経験を持つが、これも採集したからこそ新種と分かったのであって、採集していなければ今も埋もれたままだったかもしれない。

 チェン・マイの奇跡 ー 新種発見に思う ー(内部リンク)

 しかし、新種発見は確かに事例として特殊すぎるかもしれない。

「釣りと同じです」

そう答えて分かっていただけるだろうか。釣りをする人は、決して魚を食べたいから釣るのではない。釣った魚を売りさばいて儲けるために釣るのでもない。純粋に釣りが好きで、釣ることが楽しいから釣るのだ。昆虫採集も同じで、純粋に採ることが好きで、採ることが楽しいから採るのだ。

 だから「釣りはいいけど昆虫採集はダメ」と言われると、差別されているようにさえ感じる。この世に差別ほど理不尽で悲しくも腹立たしいことはない。まして新聞が先頭に立って差別を先導しているとしたら、打ち震えるような怒りを覚える。

■ 昆虫採集は自然破壊か

 「昆虫採集はダメ」と主張する人は、きっと昆虫採集は自然破壊だという先入観があるのだろう。そしてそれはとりもなおさず、冒頭の新聞記事のような一部メディアの誤った報道によって植え付けられてきたと言っても過言ではない。

 昆虫採集は自然破壊だと主張する人には是非とも、「昆虫採集は自然破壊だが、釣りは自然破壊でない」という理由を、自分の言葉で分かりやすく説明してもらいたい。もし説明が出来ないのなら、自分の胸に手を当てて冷静に考えてほしい。

 以前、私は親しい知人にこの質問を直接ぶつけたことがある。彼は私に対して多少は気を遣いながらも、臆面もなく次のような趣旨のことを語った。

「釣りは大勢の人がやっている大衆娯楽で誰もが認めているが、昆虫採集は一部のマニアがやっているだけで市民権を得ているとは言い難い。市民権が得られないのは、まさしくやっている側(愛好者側)の問題ではないのか」

 差別されるのは差別される側の問題だと言わんばかりの放言。では、愛好者側にどんな問題があるかを問うと、そんなことは自分に関係ないから知らないという。自分の知らない少数派の価値観には目もくれず、それなのに大勢に迎合して何となく否定する。でも本人は全然悪気はない。これぞまさしくマイノリティに対する偏見、差別の根源のような考え方ではないのか。仮に、認める認めない、受け入れる受け入れないは個人の自由だとしても、メディアの中にこういう人権感覚に乏しい考え方の人がいると悲劇だ。

■ 昆虫愛好家の生態

 差別という言葉は穏やかでないので誤解と言い直すとして、誤解を受けている側に説明責任はないと主張したいが、そうも言っていられないので、自分たちの名誉のために以下、弁明する。

 私たち昆虫愛好家は自分たちのことを自然愛好家だと自負している。なぜなら、そもそも昆虫愛好家は昆虫が好きなだけでなく昆虫を含めた自然そのものが好きで、単に好きなだけでなく、一般の人よりもその部分ではるかに詳しいと自認しているからだ。

 ギフチョウを採集するにはギフチョウの生態を知る必要がある。生態を知るには本を読んで勉強するのはもちろんのこと、フィールドに出て、例えば成虫の行動パターンを観察してその行動の意味を分析する。行動の意味を理解することは、一言で言えば「ギフチョウの気持ちを分かるようになる」ということだ。もちろん簡単なはずはなく、私はギフチョウを30年来追い続けているが、ギフチョウを観察していていまだに新しい発見があるし、逆に言えばいまだに分からないことがたくさんある。その謎が少しずつでも解けていくのが楽しくて仕方ない。そして幼虫の食草であるカンアオイやサイシンを知り、それらが自生する環境について知る。これらギフチョウが生息する環境について植生や水系や地形、気候について総合的に理解し、そのうえで地形図から地形を読みとってギフチョウの生息地を予想し、気象データを分析して発生時期を予測する。そうして現地に立って自分の目で見、肌で感じて五感と洞察力を働かせ、山を登り、藪をこいで、そうしてまんまと見つけて採ったときの喜びと、採れなかったときの悔しさと‥。

 こうしたことの繰り返しのうちに、いつしか山に詳しくなり、自然について詳しくなる。詳しいというのは単に知識があるということでなく、仕組みを理解し読み取る力があるということだ。

 少し偉そうなことを書いてしまったが、好きだからできるし好きだからやっている。少年の日に、家の近所の雑木林でクヌギの樹液に来ているノコギリクワガタを見つけたときの胸の高鳴りや、川面を羽を輝かせて颯爽と飛ぶギンヤンマに胸をときめかせた原体験から、いまだ抜け出せないだけだ。 

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コメント: 2
  • #1

    徳平 (木曜日, 19 7月 2018 19:30)

    こんにちは
    いつもブログ更新、楽しみにしています。

    言いたいことを代弁してくださるようで、とても嬉しいです。

    憧れるのものを手にしたい。その気持ちが否定されるのはとても理不尽なことですよね。

    釣りのようにライセンス制度にしてもらえないか、山梨県に掛け合って見ようかとも思いますが、ヘナチョコ虫屋ですので、動けないまま…山梨県も条例制定なんてなったら困ってしまいますね。

    写真でも良いかなぁと思うのですが、採るのも撮るのも良いよという、ある程度の自由を無くしたくない、これが大事なんだと自分は思います。

    登山者の中には採集者を良く思わない人も居るかと思います。しかし、身近な山を利用せず、知りもせず、本来人と関わりの薄い高山へ大挙して踏み入り広大なテン場を作ったり、足元のタカネヒカゲに目も呉れず、ピースサインで記念写真というのも、憤慨モノです。

    荷物を運ぶためならヘリで稜線を騒がせても良いんでしょうか。奥山で電磁波を飛ばしまくって良いのでしょうか。

    登山者人口は900万人以上とか。国の統計です。一方、昆虫採集人口は国の統計がありませんが、一説には1万人ほどとか。3割位は蝶屋さんでしょうか?

    産業的にお金にならないから虫は無視なんでしょうかね(笑)900人の登山者と一人の採集者、環境負荷はどちらが大きいのでしょうか。

    これこれこうだから、ここでは採っては行けませんと、きちんと説明してほしいです。行政の真摯な対応を望みます。

  • #2

    永遠の昆虫少年(サイト管理者) (金曜日, 20 7月 2018 22:36)

    徳平さまへ
    コメントありがとうございます。
    登山者人口は多いからダメで昆虫採集人口は少ないからいい、という問題ではないと思います。もちろん、そういう意味でおっしゃっているのでないことは重々承知の上で、少し誤解を招きかねないように感じましたので、あえて申し上げております。
    何事においても、裾野が広がれば広がるほど、どうしてもモラルやマナーの低下という問題が出てきます。
    要は登山者も、釣り人も、昆虫愛好家も、そうでない人も、お互いが認め合うことが一番大事だと私は思います。