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魚(さかな)は骨があるから嫌い

「魚は骨があるから嫌い」

 かつて、この言葉を聞くとなぜか無性に腹が立った。腹が立ったというのは穏当でないかもしれないが、少なくとも不愉快だった。何とか言い返してやりたい。でも、言い返す言葉がない。なぜこんなに不愉快なのだろう。自分でも分からない。もしかして、自分の前世は魚だったのか? そう思えるほど、とにかく気分が悪かった。

 昔はこんなことを口にするのは子どもだけだったと思う。それがいつの間にか、いまでは大人も平気で言う。さすがに私もいまこの歳になって、他人の好き嫌いのことでいちいち腹を立てることもなくなったが、いまでもこの言葉を聞けばあまりいい気持ちはしない。

「そういうお前みたいな骨のないヤツこそ、オレは嫌いだ」

 こう言い返したら相手はどう思うだろう。ちょっとからかってやろうか。そんなことぐらいはいまでも考える。  

 

 あるとき、こんな話を聞いた。

「骨があるのは魚だけじゃない。牛肉も、豚肉も、鶏肉も、みんな元は骨があるんだ。ただ、誰かがあらかじめ骨を取ってくれただけなんだ」

 なるほどそのとおりだ。そう思いつつ、当たり前すぎて、この言葉の本当の意味を私は理解していなかった。

 

 初めてタイへ行った30年前、現地で食べた鶏肉には骨があった。鶏をさばくときに丁寧に骨を全部取り除く面倒をせず、大雑把に取ったらあとは骨ごとチョップしてある感じだった。―― こんなことをいちいち覚えているのには理由がある。

 私の幼少期、生家は養鶏業を営んでおり、父がさばいてくれた鶏を家族でよく食べた。その鶏肉には市場で買ってくるのとは違ってよく骨が残っていて、食べる人の責任で骨を取り除くのが当たり前とされていた。タイで食べた鶏肉に骨が残っていることに、郷愁を感じたのだった。

 少し前のテレビのニュース番組で、タイに進出した日本の大手コンビニエンスストアの現地での奮闘ぶりが紹介されていた。タイといえば街中に露天の屋台が立ち並ぶことで知られる。タイの人たちはあまり家で食事をせず、外食が普通なのだという。だから安くて手軽に食べられる屋台が人気なのだ。

 そのタイで、庶民の生活に根付いた屋台を向こうに回し、コンビニ弁当が飛ぶように売れるとはとても思えない。豈にはからん、件の大手コンビニも苦戦を強いられているらしく、そこで、日本流の鶏のからあげを販売したところこれが大ウケに受けて、いまタイでは日本流からあげブームなのだとか。ウケた理由は、骨がなくて食べやすいから。タイではこれまで鶏肉には骨があるのが当たり前だったので、骨のないからあげが大好評なのだという。番組では、このことをもって「日本の『おもてなしの心』を、微笑みの国タイの人々が大絶賛」という取り上げ方をしていた。

 

 違うと思う。ウソッぱちだ。タイの人たちは、これまで鶏肉には骨があるのが当たり前と思っていたので、骨のない鶏肉を有り難く感じている。逆に日本人は、鶏肉に骨がないのは当たり前で、誰もそのことに感謝などしない。それどころか、牛肉も、豚肉も、誰かが骨を取ってくれたことなどみんなとっくに忘れてしまって、行き着くところ魚に骨があるのが不満なのだ。

 「当たり前」の反対は「有り難い」である。有り難いはずのことが当たり前になったことで、感謝の心を忘れてしまった日本人。いつの間にか、知らず知らずのうちに傲慢になってしまった、そんな日本人の姿が、タイのからあげブームの向こうに透けて見える。

「魚は骨があるから嫌い」

 この言葉に無性に腹が立った理由(わけ)が、いまになってやっと分かった。